『易』の歴史

『易』『易経』といい、これを中国語読みすると「イー・チン」です。「経」という字はもとは織物の縦糸の意味です。そこから「すじみち」「道」の意味になります。つまり、ものごとのすじみち、人の生きる道、天下国家を治める道を示すようになり、さらには宇宙の原理を現わすようになりました。ですから、それを説き明かした書物を「経書」と呼ぶようになったのです。

中国ではこの『易経』を筆頭に『詩・書・礼・春秋』を合わせて五経と呼び、この二千年間、学問の世界では最も権威ある書物として親しまれてきました。アジア文化圏の精神的な支柱である儒教のバイブルとして、『大学・中庸・論語・孟子』四書と併せて日本にも早くから伝わり、これらを四書五経と呼び、つい百年前までは、学問に取り組む者はまず最初にこれを徹底的に叩きこまれました。

占いとしての易の歴史は、殷(いん)の時代(前1700年~前1122年)には、亀の甲を灼いて、そのひび割れの形で吉凶を占っていました。「ト占」という言葉がありますが、「ト」という字は亀の甲のひび割れた形をあらわす象形文字です。河南省安陽県の殷の都の遺跡から発掘された、おびただしい亀甲がそのことを証明しています。

周(しゅう)の時代(前1100年~前770年)に入ると、入手しにくい亀甲の代わりに、蓍(めどぎ)という多年草の茎を用いる簡便な方法が編み出され、それを特定の方法で数え、数自体で占う方法に変わっていきました。この草は長寿で知られていました。これが後に竹で代用され、今日の筮竹となります。

ですから、中国の占いには約四千年の歴史があるわけですが、筮竹を用いる易が行なわれるようになったのは、紀元前十二世紀ぐらいからではないかと言われています。さらに、自然に対する知識の増加につれて、何もかも占いに頼るのでなく、人の判断や意思を重視していく人間主体の考え方が生まれ、神意を問う占いから、人の判断や意思決定のための占いへと転換していきました。現在行なわれている『易』は、この周の時代のもので、一般には『周易』とも呼ばれます。

当時の記録によると、『周易』よりも前に連山(れんざん)易・帰蔵(きぞう)易という二つの易があったといいますが、文献も伝わっておらず単なる伝説として、連山易は夏(か)(年号不詳)の時代に、また帰蔵易は殷の時代に行われたといわれているだけで、詳しいことは何もわかっておりません。また春秋戦国時代(前770年~前221年)末期に、鬼谷子(きこくし)などによって創られたといわれる「断易(だんえき)」(五行干支易)が、精緻な占法として今日まで伝えられています。

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