『易』の作者

『易』はいつごろ生まれたのでしょうか。『易』の八卦を最初に創った人は、伝説的な中国最古の三皇の一人である太昊伏羲氏(たいこうふっきし)であると伝えられており、繋辞伝(けいじでん)の中でもそのように述べられています。

つまり、伏羲という五千年前の中国の天子が、仰いで天の運行の状態を観察し、伏して大地の形勢や理法をみながら、鳥獣の状態や自分自身の姿を観察して、それらを象徴的にとらえて初めて八卦を創り、これを重ねて六十四卦として完成したといわれます。

二本の角を持ち、下半身は蛇身であったことを伝える多くの画像からも、伏羲はある種のシャーマンであったことが考えられます。伏羲は異形の神であり、同時に神と人とをつなぐ神官として観念されてきた存在でした。この伏羲が古代皇帝に進言する多くのシャーマンの集合体であり、彼らがこの類いまれな八卦の理論を神より授けられたというのかもしれません。

神話上の帝王伏羲に次いで、『易』の成立にかかわったとされるのは、周王朝の開祖文王(ぶんおう)です。文王は殷を減ぼした実在の人物です。文王は殷を攻めたときに、一時、殷の最後の暴君紂(ちゅう)のためにとらわれの身となります。その獄中で、一つの卦の全体の内容を説く「卦辞(かじ)」を考案したと伝えられています。

そしてさらに、中国史上最大の賢人ともいわれる、文王の子周公(しゅうこう)「爻辞(こうじ)」をつけ加え、孔子が「十翼(じゅうよく)」を創作したと伝えられております。

伏羲 文王 周公 孔子
左から伏羲、文王、周公、孔子

いずれも中国における史上名高い賢者たちです。ただ合作にしては、この三人の時代があまりにも隔たり過ぎています。神話時代の伏羲はともかくとして、実在の文王と孔子にしても約六百年の違いがあります。だからこの伝説は、あくまでも『易経』を権威づけ儒教を正当化するための作り事にすぎないとも言われています。

しかしこれが本当に言わんとすることは、占いとしての易がほぼ基本的に完成する、前十二世紀(文王の時代)よりもはるかに遡る昔から、その内容と技法は、代々練りに練られ磨かれてきたという一面を強調するものです。事実易は、悠久の時を営々と生き続けてきました。

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